歴史の散歩道
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暖春

クビライの夢ー9

 元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

 大カアンの家系図。
初代・チンギス・カン
二代・オゴディ
三代・グユク
四代・モンケ
五代・クビライ

                 元帝国の終焉
 
 クビライとそのブレーンたちによって、国家と経済のシステムの基盤が定められた結果、元のモンゴル帝国は、もはやクビライのような個性を大カアンにいただかなくても、そのシステムが機能するままに、安定した状態で運営されることとなった。

 ところが、この状況は長くは続かなかった。
1330年代からほとん軌をいつにして、モンゴルの東西は、混乱し、揺らぎ、次第に沈み込んでいく。
原因のひとつは、あきらかに1310年代から1320年代頃より始まった異様なほど長期で巨大な地球規模の天変地異であった。

 これは、モンゴル領内だけではなかった。
ヨーロッパでは、1310年代ころより、ひんぴんと災害や異常な天候不順が起こり、農業生産は酷くそこなわれた。

 そして、ついに1346年より黒死病が,エジプト・シリア・東地中海沿岸部・そして西欧を襲い、国家と社会を破滅に追い込んだ。同じ頃、中国でも黄河が大氾濫し、悪疫が華北・華中を襲った。

 ともかく、モンゴルを中心とするユーラシア世界の輝きは、光り始めたとたんに、およそ70年ほどにわたる長期の「大天災」で、うしなわれた。

 各地のモンゴル権力は、一気に「倒壊」する形をとったものは、実は一つもない。
ゆるみ、ゆらぎ、自壊し、分立し、そして次第に影を薄くしていく形をとった。歴史の表面からいつとは知れず、時間を掛けて「フェイド・アウト」して行った。

 元帝国は、1368年、中国から後退する。
クビライ王朝そのものは、その後も20年余、モンゴリアを根拠地に明朝と熾烈な攻防を展開する。
しかし、クビライが創出した大統合のもととなる政治と経済のシステムは失われ、モンゴル帝国は急速にまとまりをなくして、大小のさまざまな諸勢力に分かれて行った。

                   クビライ(完)
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クビライの夢ー8

 元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

 大カアンの家系図。
初代・チンギス・カン
二代・オゴディ
三代・グユク
四代・モンケ
五代・クビライ

             クビライ政権の国家収入

 ムスリム経済官僚を中心に推進された、クビライのモンゴル政権における財政運営と経済政策は、極端に重商主義であった。

 中央政府の収入の80%以上が塩の専売による利潤であった。
くわえて、10%から15%にのぼる商税の収入、つまり商行為に課税した収入である。
塩の専売収入と商税収入とをあわせると実に90%から95%となってしまうのである。

 農業生産物は、地方財政に振り当てられた。
その土地で出来たものから得られる税収はその土地でその土地の為に使ってしまうのが、クビライ政権の基本政策であった。

 叉、クビライ政権の大きな特徴として、「通過税」の完全撤廃がある
それまでは、商人が要所要所を通るたびに通過税を取られた。これでは、長距離を動く大型の商業や商人は育たない。
クビライとその経済官僚たちのブレーンは、中間の経由地における通過税をなくしたのである。
まさに、織田信長の関所の撤廃である。
その見返りとして、地方にはその土地からの税収の全てを地方税として与え、中央にあがってこなくともよい事にした。

 通過税の完全撤廃は、歴史を画するクビライの大英断であった。
遠隔地商人は、これで大いに楽になり大商人達はモンゴルの武力と交通網を使って、中国本土のみならずユーラシアの各地へどんどん出かけていった。

叉、商品は、最終の売却地で「売上税」を払えばよい事となった。その税率は、なんと一率に三十分の一、およそ3%と決められた。
従来、主要な城市や交通上のポイントを通るたびごとに、いちいち取られていた時からすると大変な低額である。それが「商税」であった。

 クビライ帝国は、拠点支配と物流・通商のコントロールを最大の特徴とする。
物資を集散し、それに課税して財源とすることで大いなる富を集めたのである。
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クビライの夢ー7

 元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

 大カアンの家系図。
初代チンギス・カン
二代オゴディ
三代グユク
四代モンケ
五代クビライ

                 クビライ政権の経営戦略

★短期間の間に広大な領地を拡大していった秘密は何であろうか?

 みじかい歳月で、モンゴルの驚くべき拡大・統治が達成された背景には、軍事とムスリム商人達の通商結合が濃厚にあった。

 もともと、モンゴル国家では、チンギス・カンが高原を統一する前から、その周辺にムスリム達、とりわけイラン系の商人達が出入りしていた
その後、モンゴルが対外戦争に打って出ると、彼ら中央アジア・イラン方面出身のムスリム達の活動は激しくなった。

 通商団の名のもとに、隊商をくんで敵地に赴き、内情調査・かく乱工作・調略活動を繰り広げた。
都市や国家・政権に対する降伏勧告や交渉調停の使節にも、たいていムスリムが加わっていた。
又、 モンゴルの軍事遠征の二つの特徴である、情報戦・補給戦のどちらにも、ムスリム勢力が大きな割合でかかわっていたのである。

 極端に言えば、モンゴルは、ムスリム商人たちを中心に用意されたルートを、ただひたすら進めばよかった。
つまり遠征の成功は、半ば保証されていたのである。

 さらに、ムスリムたちの能力が発揮されたのは、征服後の統治と運営においてであった。
とくに「大元」の富の源泉である徴税は、ほとんどひとえにムスリムたちにゆだねられた。
それはたいてい、「請負」のかたちでおこなわれた。

 ムスリム商人達は、自分たちの商圏の拡大とより大きな利潤のため、モンゴルの軍事力・政治力を利用したといえる。
モンゴルもまた、そうしたムスリム商人達の資本力・情報力・通商網を利用して、みずからの遠征と拡大を円滑にみちびいた。

 みじかい歳月で、モンゴルの驚くべき拡大による、世界帝国モンゴルの形成にとって、イラン系ムスリム商人達は、不可欠の要素であったのである。
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クビライの夢ー6

 元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

 大カアンの家系図。
初代チンギス・カン
二代オゴディ
三代グユク
四代モンケ
五代クビライ

                    クビライ幕府

 クビライは側近やブレインとの対論や協議を盛んに行い、綿密に分析・検討した後に決定を下した。
側近やブレインたちに対する信頼は絶大であった。
あることを誰かに任せると決めれば、ことの成否が明確になるまでは、まかせきった。
 
 外交・軍事・行政・徴税・財務・兵站・輸送・・・
さまざまなブレインが居たとは言え、クビライはどんどん新しいメンバーを付け加えていった。

全ての意見に耳を傾け、それを取捨選択し、人を見つけ、人を生かし、しかるべき所に配置して、大きな組織の力とするのは、結局クビライであった。

新情報や新知見については、非常に敏感であり、有能な人間の発掘・登用には極めて貪欲であった。

 そして一旦必要とあれば、クビライは、ただちに陣頭にたった。
73歳で反乱軍を親征・鎮圧したのは、その一例であり、果断で英邁な人物でもあったのである。
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クビライの夢ー5

 元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

 大カアンの家系図。
初代チンギス・カン。二代オゴディ。三代グユク。四代モンケ。五代クビライ。


              クビライの登場

 第五代皇帝・クビライは、時に37歳。
4代カアン・モンケより7才下の弟であった。

 4代皇帝のモンケは、チンギス・カンの末子トルイの長男であった。
モンケの急なる崩御で弟・クビライが第五代皇帝となったが、この時までのクビライについて、殆どこれといって伝えられる所が無い。

 クビライは異様な人である。
モンゴル人では誠に珍しい80歳の長命を保ったこと事態が異様である。
そして、突然37歳でモンゴルの東方の権力者として登場するまで、これほどの歴史上の人物でありながら、その前半生が殆どわからないというのも、異様である。

 クビライについては、すべては、1251年から見え出してくる。

 モンゴル人は無知蒙昧であるという説があり、しばしば第4代皇帝モンケも、単純・素朴な遊牧武人で、戦争の事しか知らなかったなどと語られる事もあるが、ペルシャ語の記録によれば、大カアンのモンケ自身が数ヶ国語を自在に操り、ユークリッド幾何学をはじめ、古今東西の諸学に通じていたという抜群の知識人であった。

 種々雑多な人種、多種族の世界帝国を指揮する人物が、普通言われるとおりの単純、素朴ではとてもやっていけないのは自明である。
言葉の面でも、通訳を介するより自分で判るほうが確かななのも当たり前である。

 クビライが、はたしてモンケのようであったかどうかは明確な記録がなく、クビライ個人が優秀であったかどうかは、史料の上ではわからない。
ただ、クビライはモンゴル語で「セチェン・カアン」すなわち「かしこいカアン」とおくり名された。
聡明な人物であったことは間違いないと思われる。

 

クビライの夢ー4

 元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

               三顧の礼

 「通説」では、「科挙の停止」が行われた為に、モンゴルは無知蒙昧で、高度な中国文化などは理解できなかったというが、実は中華文化の教養人であれば、「三顧の礼」をつくして厚遇した。

 旧南宋の学者・文化人でも、優れた人物はどんどん招聘した。モンゴルは、実に人材選抜に敏感であったし、熱心であったのである。

 評判の悪い「科挙の停止」についても、モンゴル政権のもとでは、これまでの中華王朝ならば人間選抜の第一の基準とされた、古典や文学の教養が万能とはされなくなってしまった。

 つまり、モンゴルでは、現実に役だつ能力、実務に携わり処理する実行力こそが第一だとされ「科挙」にこだわらなかったのである。
現実に「科挙の停止」された時期にも、かなりの中国人官僚がモンゴル政権に仕えていた。高級官僚もいたし、宰相・大臣クラスまで登った者もいる。彼らの殆どは科挙ではなく、いわば「推薦制」で登用されたのである。

 又、モンゴル人を最高位とし、南人を最下位とする「元代社会の四階級」も大いなる誤解がある。
モンゴルは、人種・言語・宗教・文化の違いに、殆どこだわらなかった。

 「モンゴル」というのは、草創以来の牧民貴族の子孫を中核に、モンゴル政権に参画したさまざまな人種からなる為政者達を指すのである。
つまり、家柄や出身が立派でなくても、人種や言葉や顔立ちが異なっても、運と能力と実績さえあれば、最高位の「モンゴル」となることもありえるのである。

であるからこそ、短期間に広大な「元帝国」を完成させたのであろう。
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クビライの夢ー3

 元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

            中国にとってのモンゴル

 一口で言えば、モンゴルは中国にとって災厄でしかなかった・・というのが、これまでの常識である。

 科挙の停止、四階級制の確立、そしてマイナス・エネルギーの発露とされる庶民文化の興隆、というのが決まり文句で、たいていこの三点で説明される。

(一)科挙の停止
 モンゴル時代の中国では、支配者のモンゴルは無知蒙昧で、高度な中国文化を理解できなかった。そのため、中国文化を支えてきて文化人や知識人は不遇な境遇に追いやられた。

 「士大夫・したいふ」あるいは「読書人」と呼ばれることもあった彼らにとって、高等文官選抜試験「科挙」に合格して王朝政治に参加することこそ、人生の目標であり希望であった。
しかし、モンゴル治下では、長い間科挙は行なわれず、彼らの高級官僚への道はとざされた。
科挙は、元代中期になってやっと再開されたものの、ほんのささやかなものであった。 "

(ニ)四階級の身分制度
 モンゴル治下の中国では、人種・地域により、四階級の身分制度が厳重にしかれていた。
少数の支配者であるモンゴルは、人種や生活習慣や文化伝統の違いをたくみに利用して、自分たちの支配を有利に導いた。

(最高位)・・・支配者のモンゴルである。

(第二位)・・・「色目人・しきもくじん」と呼ばれた異邦人。
ウイグル・タングトとよばれた西夏族・中央アジアから来たキプチャク・ムスリム・そしてヨーロッパ人も含まれる。

(第三位)・・・「漢人」
かっての金朝の領域に当たる北中国の住民のことで、いわゆる漢族のほか、遼朝キタン帝国の後裔であるキタン族や、金朝の支配層であった女真族もさす。

(第四位)・・・「南人」
元南宋国の住民であった南中国の人々、「南人」がすえられた。

 一番悲惨であったのは、「南人」であった。
彼ら、元南宋の住民達は社会の最下層に位置づけられて、差別と虐待を受けなければならなかった。
とりわけ哀れを極めたのは、儒者であった。伝統中国王朝ならば重んじられたはずの儒者達は、口だけ達者で役立たずの出来損ないとされた。
社会を縦に十段階に仕切った時、儒者は九番目で、乞食よりはましなだけで、儒者のすぐ上の八番目には、売春婦が置かれていた。

 そのため、官途を失い、立身の道を閉ざされた「士大夫」達は、抑圧された不満とエネルギーを、それまでであればかえりみることのなかった庶民文化の分野に注ぎ込ンだ結果、庶民文化の興隆を迎えたのである。

 つまるところ、一口で言えばモンゴルは中国にとって災厄でしかなかった・・というのが、これまでの常識である。・・・が、このなかには誤解と詭弁がない交ぜになっている部分も多いのである。

 モンゴルの実態は、大いなる能力主義と実務主義の人材選抜であったのである。
モンゴル治下では、モンゴル政権との縁故か、実力か、そのどちらかでもあれば、人種に限らず誰でも登用されていたのである。

であるからこそ、元帝国が隆盛を極め、日本が「蒙古来襲」で散々な目にあうほどの力を持っていたのである。
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クビライの夢-2

元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

             モンゴル時代のイメージの真実

 モンゴルとその支配については、ありとあらゆる言葉をつくして、さまざまな非難や悪罵が歴史を通じて浴びせられてきた。

 暴力・破壊・殺戮・圧制・搾取・強奪・強制・無知蒙昧・粗野・野蛮・粗暴・悪辣・邪悪・破廉恥・無軌道・不寛容・非文明などである。

 このようにモンゴルについては、悪い評判が普通であった。
とりわけモンゴルを「文明の破壊者」とする考えは古くから繰り返されてきた。

 例えば、イランないしイスラーム、中東地域の低落が述べられる時、しばしば「モンゴルの破壊」に、その由来が求められた。

 又、ロシア方面についても「タタルのくびき」と言う用語でモンゴルの支配がロシアにとって如何に過酷で苦渋に満ちたものであったか、帝政ロシア時代から、ソ連時代、さらに最近に到るまで、好んで語られた。

 しかし、一般にモンゴルを悪者とするイメージがもっとも定着しているのは、中国史の場合である。

 モンゴル時代の中国では、支配者のモンゴルは無知蒙昧で、高度な中国文化を理解できなかった。
そのため、中国文化を支えてきた伝統の文化人や知識人たちは不遇な境遇に追いやられた。

 一口で言えば、モンゴルは中国にとって災厄でしかなかった・・というのが、これまでの常識である。

 科挙の停止、四階級制の確立、そしてマイナス・エネルギーの発露とされる庶民文化の興隆、というのが決まり文句で、たいていこの三点で説明される。

 モンゴルは、中国と民衆にとって、混乱と圧制と搾取に象徴されて、南宋時代にめざましい発展を遂げて、世界最高の社会・経済・文化・技術の水準に到達していた中国は致命傷と言える大きな痛手と頓挫を味わう事となった。・・・・

 ・・・と言う事になっているが、どうやら実態は少し違うと言う研究もなされてきた。
モンゴル統治下の世界連邦は、それ程の痛手を受けていなかった・・と言う事なのである。

 モンゴルは、本当にすべての文化に反逆し,戦いのみに生きる「蛮族」であったのであろうか。

 十三世紀の中国史を仔細に探索し、モンゴルが如何なるものかを段々に紐解いていこう。 "

クビライの夢-1

 元・第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

              「大モンゴル国」

 西暦十三世紀のはじめ、のちにモンゴル高原とよばれる事になる大草原の東北隅に、ささやかな遊牧集団が急速に勢いをましつつあった。

 首領の名はテムジン

 1206年の春、テムジンはオノン河の上源に広がる美麗な草原で即位式をあげ、チンギス・カンと名乗った。

 そして新しい遊牧国家を「大モンゴル国」と名づけた。

 この新興国家の指導者は、つぎつぎと周辺地域に対する遠征を企画し、遊牧民を率いて外征の旅にでたのである。

 チンギスはモンゴルという遊牧民連合体の新興国家は、挙国一致の外征にうってでなければ、たちまちくずれかねない危うい存在であることをよく知っていた。

 北中国の金朝をはじめとする周辺国家は、モンゴル高原の遊牧民が統一される事をもっとも恐れ,遊牧民同士を敵対させる政策を、ながらくつづけてきていたからである。

 チンギスが高原統一に満足して、なにもしなければ離反や内応をするものすぐにでも出てくるだろう。

 チンギスにとっての対外戦争は、さまざまな遊牧民達を一つに結束させる一番手っ取り早い方法であったのである。

 かくして、かれらの旅は、世代を超えて数十年にわたってづづくことになった。
もともとは、雑多な人間の集まりに過ぎなかったこの政治・軍事集団は、こうした軍旅と拡大を通じて、互いに一体感で結ばれ、ともに自らを「モンゴル」だと認識するようになっていった。
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