家康 二代将軍 秀忠
秀吉の朝鮮侵略戦のとき、家康は豊臣政権の中枢を占めていたので肥前名古屋(佐賀県鎮西町)まで出陣し、その後も大坂あるいは京都の伏見城で過ごす事が多くなった。
江戸の留守を守り、城と町づくりを押し進めたのは秀忠であった。
もちろんまだ少年なので実際は重臣達の手になるものである。家康の最も信頼できる家臣の一人で実力者の大久保忠隣が秀忠の後見人となっていた。
秀忠が結婚したのは17歳のとき、文禄4年9月のことであった。相手は6歳年上で、しかも初婚ではなく三度目の結婚であった。
その相手とは、浅井長政とお市の方の三女小督(おごう・お江)である。
お市の方の長女淀殿は秀吉の側室であり、小督は秀吉の養女として秀忠に嫁したのであった。これは時の天下人秀吉の肝いりによる強引な婚儀であった。
当時の結婚はほとんど政略的なものであり、本人の意思とは関わり無く決められるものであったとは言え、遥か年上で二度も出戻った女性であれば、秀忠にとって意に染まぬものであったであろう。
ところが案に相違して、秀忠は美人だが気の強かったというこの年上の妻にすっかり惚れ込んでしまうのである。
秀忠はこの正婦人との間に八人の子をもうけ、殆ど他の女性をかえりみなかった。わずかにお静と言う側室に保科正之を生ませているが、正婦人に知られぬようにこっそりと育てさせた。 " "