家康  家康の死 東照大権現 | 歴史の散歩道

家康  家康の死 東照大権現

 元和2年(1616)正月元旦、江戸城の新年祝賀の儀式では例年と異なる光景が見られた。竹千代(家光)と国千代(忠長)の間に、あからさまな処遇の差がつけられていた。


 将軍秀忠が直垂の正装で黒書院に着座、続いて竹千代が秀忠の左の座についた。それから国千代が太刀目録をささげて出座し、祝賀の言葉を述べた。 


国千代は新年祝賀の辞を受ける側ではなく、祝賀を申し上げる側に下げられている。  ここに大奥に渦巻いていた三代将軍の椅子の主を巡る暗闘に明らかな決着がついたことが確認されたのである。


 この正月鷹狩に出ていた家康は田中で発病した。

3月27日、勅使の広橋兼勝と三条西実条が家康を太政大臣に昇格させる宣命を伝えた。  家康が75年の生涯を閉じたのは元和2年(1616)4月17日であった。


 わが霊は駿河の久能山に神として祀れと家康は遺言をしていた。遺体は久能山に神として祀り、祭礼は江戸の増上寺で行い、1年を過ぎたら日光山に小堂を立てて久能山から霊を勧請せよと言うものだった。  日光山の霊として祀られ、関東八州の鎮守の神となって永遠の時を生きていくのが家康の念願だった。 "