二代将軍・秀忠 改易と廃絶の政治
竹千代が元和6年17歳で家光と名をあらためる。
同時に15歳の実弟・国千代も元服し忠長と改めた。家光が伏見城で征夷大将軍の宣下を受けて正二位・内大臣に昇進したのは20歳の元和9年(1623)である。
二代将軍秀忠は大名の粛清の刃を縦横無尽に振るい続けた。
大名が廃絶される原因は三種類あった。
① 敗戦
② 無嗣のまま死亡
③ 幕府の処罰である。
敗者の大名を続々と廃絶させたのは家康であって、秀忠と家光が第二、第三の理由による大名処分を断行する。
無嗣廃絶の大物の第一号は備前岡山で51万4千石の小早川秀秋だが、慶長7年(1602)だから家康の時代である。
武田信吉(家康の5男)・松平忠吉(家康の4男)・平岩親吉(三河以来の功労者筆頭)・本多忠刻(千姫の夫)・等、徳川の一族や関係の濃い者でも容赦は無い。
関が原合戦の端緒をつくった鳥居元忠の子孫の鳥居忠恒が寛永13年(1636)に無嗣廃絶の憂き目にあう。
家康はつねづね「伏見城で死んだ鳥居たちのことを思うと涙が止まらない」とまで称賛を惜しまなかったが、それでも「無嗣死亡は断絶」のルール適用を除外される事は無かった。
慶長7年(1602)の小早川秀秋から慶安元年(1648)の織田信勝まで、無嗣廃絶された大名家は56家、没収された領地の合計は440万石をこえる。 大名が廃絶されると膨大な数の浪人武士が発生する。
浪人は職と食を求めて移動する。
九州の天草・島原で起こったキリシタンの反乱は、裏を返せば職と食を求める浪人の決起であった。 "