家光  幕藩体制を確立し鎖国を完成 | 歴史の散歩道

家光  幕藩体制を確立し鎖国を完成

 実弟で最大のライバル・駿河大納言忠長を改易した同じ寛永9年(1632)5月、家光は肥後熊本54万石の太守加藤忠広を突如改易している。忠広は加藤清正の嫡男である。


 家光は二代将軍秀忠以上の大名統制策を推し進めた将軍であった。その治世下に改易された外様大名は29家、譜代・親藩20家を数える。 改易総石高は約400万石となった。


 家光は老中・若年寄・三奉行などの老中制を確立するなど、幕府の政治機構と組織の確立に意を注ぐ。 さらに武家諸法度を改訂強化し、参勤交代の制を定めた。又軍役令を定め農民法令も整備した。そして鎖国体制を完成させる。


 家光の治世を考える上で抜かす事が出来ないのが、鎖国政策であり、徹底したキリシタン弾圧であった。家光は徹底したキリシタン嫌いであった。 諸大名には繰り返しキリシタン狩を命じ、幕領でも踏み絵などによる執拗なキリシタン信徒のあぶり出しを行なった。改宗しないものには容赦なく火あぶりの刑に処したり惨殺したりした。


その結果勃発したのが寛永14年(1637)10月の一揆に端を発する島原の乱であった。  この島原の乱が家光に鎖国の意思を決定的に固めさせた。


幕府は島原の乱をキリシタンによる暴動と位置づけ、この根源を断つためポルトガル船の寄港を一切禁止し、ポルトガル人を追放したあとの長崎の出島にオランダ人だけを移し、ここだけを幕府による外国との唯一の窓口とした。


家光の時代に、徳川幕藩体制はほぼ整った。ここに徳川家が諸大名に絶対的優位であると言う権力構造の基礎が確立されたのである。 " "