黒衣の宰相 金地院崇伝-1
金地院崇伝は足利義輝の家臣・一色秀勝の二男として生まれ、室町幕府の滅亡を機に幼くして臨済宗禅寺霊山のもとで出家し、後に南禅寺塔頭の一つ金地院に住んだので今地院崇伝の名があり、鎌倉建長寺の住持にもなった。
慶長13年(1608)大御所・家康に召しだされ外交文書の起草を行なうようになる。
まだ37歳の若さにして、京や鎌倉五山の上位に立つ南禅寺の住持という禅僧としては最高位の身分であった。
慶長17年、京都所司代板倉勝重とともに寺院行政をつかさどるようになりキリシタン禁令を奏した。慶長19年12月家康から2回目の禁令を奏するよう命じられた崇伝は夜を徹して構想を練り、一番鳥の声とともに筆を起こして日の出までに書き上げた。
日本で布教活動を行なう宣教師をポルトガルの侵略的植民地主義の尖兵と喝破、神国たる日本の敵と位置付けるものであった。 "