黒衣の宰相  金地院崇伝 -2 | 歴史の散歩道

黒衣の宰相  金地院崇伝 -2

   慶長19年(1614)7月、幕府御用僧・金地院崇伝の名を歴史に刻む事件が起こった。  


豊臣秀頼の勧進で行なわれていた方広寺・大仏殿落慶供養を目前にして、梵鐘に刻まれた「国家安康」の銘文に、家康の名を引き裂き徳川家を呪うものであるとクレームを付け、大坂の陣に持ち込むきっかけを作ったのである。  


そして大坂冬の陣が終わるや、禁教令に基づき宣教師と切支丹大名・高山右近ら有力な日本人信者の大量国外追放を建言、実現させた。

来るべき大坂夏の陣を控え、全国の切支丹信者たちが豊臣方に加担するのを防ぐ為に他ならなかった。


 豊臣家が滅亡した直後、崇伝は伏見城に集まった諸大名を前に、自ら起草した「武家諸法度」を読み上げた。それは13か条からなり、大名間の無断婚姻禁止・参勤作法の遵守・居城の修理や新造の禁止他、厳しく大名を統制する施策である。


 続いて崇伝は17か条からなる「禁中並公家諸法度」も起草した。天皇を先例に関する知識・学問の管理に専念すると限定して政治から遠ざけ、主な公家の席次・任免・昇進・刑罰・僧侶の昇格などについても規制したのである。


従来の朝廷と幕府の関係を逆転させたわけで、幕府にとってその功績は絶大なものであった。 それらの功績により、金地院崇伝は10万石の所領を与えられ大名並みの待遇を受けた。 " "