家康を神格化   南光坊 天海 | 歴史の散歩道

家康を神格化   南光坊 天海

 南光坊天海も崇伝と同じ慶長13年に家康に招かれて駿府城に登り天台宗の教えを説いた。が、崇伝とは異なり国政には容喙せず、秀忠や家光にももっぱら祈祷をもって仕えた。  


家康は「天海僧正は人中の仏ともいうべきお方である。惜しむらくは、出会いが遅すぎた」と語ったと言われる。


 天海の名をより高めたのは、元和2年4月、家康が死の床に、天海・崇伝・本田正純の3名を呼び「遺体は久能山に納め、一周忌が済んだら日光山に堂宇を立てて勧請せよ。関八州の鎮守となろう」と遺言した事に始まったが、葬儀を巡って天海と崇伝が激しく対立したのである。


 崇伝は吉田神道により、「し号」を大明神とすべしと主張し、一旦は遺骸を久能山に葬った。が、天海は、まだ墓の土も乾かぬうちに参拝した秀忠の前で異を唱えた。


天海によれば家康は、神号を権現として祀るように言い残したというものであった。権現とは仏が仮に神と成って現れるとする考え方である。


 崇伝と本田正純は、そのような遺言は聞いていないと反論したが、天海はひるまず、秀吉が豊国大明神として祀られた例を引き合いに出して反撃した。


豊臣家の末路を思えば、大明神がいかに不吉な神号か判るではないかというのである。  そう言われては秀忠も同意せざるを得ず、遺体を久能山から日光山に会葬し、神号も朝廷から示された「東照大権現」とした。


こうして天海は幕府守護神の祭祀者の地位を手にしたのである。  崇伝にかわる新・黒衣の宰相の誕生といえるのである。神道内部の勢力争いであり、織田信長の比叡山焼き討ち以来衰退していた天台宗再興の情熱が、天海をしてこうまでさせたものであろう。


 天海は紫衣事件でも厳科を主張する崇伝と対立し、穏便な処置を説いて天下の人気を得た。寛永元年(1624)には秀忠の依頼で江戸忍岡に東叡山寛永寺を建立し開山となる。


没後は朝廷から、慈眼大師を贈られた。


 尚、崇伝は神号問題をめぐって天海僧正との論争に敗れ、又寛永4年(1627)、家光の時代に勅許による僧侶の昇進を無効としたいわゆる紫衣(しえ)事件では、法度に違反した沢庵和尚達を流罪に処するよう強く主張、その厳酷な態度から「大欲山気根院僭上寺悪国師」と世の批判を浴び、程なく出番を失っていくのであった。 " "