家康の知恵袋  林 羅山 | 歴史の散歩道

家康の知恵袋  林 羅山

林羅山は家康の知恵袋として重用され、家綱まで4代に渡り侍講として仕えた。


君臣豊楽、子孫殷昌」を豊臣を君主にしてその子孫の繁栄を楽しむとこじつけ、右大臣の唐名である「右僕射源朝臣」についても、源朝臣すなわち家康を射殺する意味に相違ないと付会したのである。

 銘文が当代の大智識・南禅寺長老清韓文英と承知の上での言いがかりである。
幕府御用学者として、林羅山が家康の意に沿うべくひねりだした追従であった。

 家光の代になり、崇伝や天海の亡きあと、林羅山が彼らの取り仕切ってきた法令文、国書の選定を一手に引き受けるようになり幕府儒官の地位を確かなものとした。

 それからも林家は官儒の頂点・大学頭となり朱子学をもって封建的幕藩体制を支える役割を果たし、幕末に至るまで連綿として続いて行くのである。


 
のち、「国家創業に際して大いに寵任され、朝議を起こし律令を定める。大府(家康)の用いた文章で林羅山の手を経ないものは無い」とまで言われた。
 
  林羅山は京四条新町の町屋・林家長男・信勝として生まれて朱子学を学び儒学者の道を選ぶ。

 林羅山の名が上がったのは慶長19年、方広寺の鐘銘事件であった。 
金地院崇伝が「国家安康」にクレームを付けたのに続き、林羅山も意見書を提出する。