クビライの夢ー3 | 歴史の散歩道

クビライの夢ー3

 元の第五代カアン・クビライは、チンギスが結集させた草原の軍事力を支配の根源として保持しつつ、中華の経済力を管理し、ムスリムの商業力を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、モンゴル世界連邦を創設した。 

            中国にとってのモンゴル

 一口で言えば、モンゴルは中国にとって災厄でしかなかった・・というのが、これまでの常識である。

 科挙の停止、四階級制の確立、そしてマイナス・エネルギーの発露とされる庶民文化の興隆、というのが決まり文句で、たいていこの三点で説明される。

(一)科挙の停止
 モンゴル時代の中国では、支配者のモンゴルは無知蒙昧で、高度な中国文化を理解できなかった。そのため、中国文化を支えてきて文化人や知識人は不遇な境遇に追いやられた。

 「士大夫・したいふ」あるいは「読書人」と呼ばれることもあった彼らにとって、高等文官選抜試験「科挙」に合格して王朝政治に参加することこそ、人生の目標であり希望であった。
しかし、モンゴル治下では、長い間科挙は行なわれず、彼らの高級官僚への道はとざされた。
科挙は、元代中期になってやっと再開されたものの、ほんのささやかなものであった。 "

(ニ)四階級の身分制度
 モンゴル治下の中国では、人種・地域により、四階級の身分制度が厳重にしかれていた。
少数の支配者であるモンゴルは、人種や生活習慣や文化伝統の違いをたくみに利用して、自分たちの支配を有利に導いた。

(最高位)・・・支配者のモンゴルである。

(第二位)・・・「色目人・しきもくじん」と呼ばれた異邦人。
ウイグル・タングトとよばれた西夏族・中央アジアから来たキプチャク・ムスリム・そしてヨーロッパ人も含まれる。

(第三位)・・・「漢人」
かっての金朝の領域に当たる北中国の住民のことで、いわゆる漢族のほか、遼朝キタン帝国の後裔であるキタン族や、金朝の支配層であった女真族もさす。

(第四位)・・・「南人」
元南宋国の住民であった南中国の人々、「南人」がすえられた。

 一番悲惨であったのは、「南人」であった。
彼ら、元南宋の住民達は社会の最下層に位置づけられて、差別と虐待を受けなければならなかった。
とりわけ哀れを極めたのは、儒者であった。伝統中国王朝ならば重んじられたはずの儒者達は、口だけ達者で役立たずの出来損ないとされた。
社会を縦に十段階に仕切った時、儒者は九番目で、乞食よりはましなだけで、儒者のすぐ上の八番目には、売春婦が置かれていた。

 そのため、官途を失い、立身の道を閉ざされた「士大夫」達は、抑圧された不満とエネルギーを、それまでであればかえりみることのなかった庶民文化の分野に注ぎ込ンだ結果、庶民文化の興隆を迎えたのである。

 つまるところ、一口で言えばモンゴルは中国にとって災厄でしかなかった・・というのが、これまでの常識である。・・・が、このなかには誤解と詭弁がない交ぜになっている部分も多いのである。

 モンゴルの実態は、大いなる能力主義と実務主義の人材選抜であったのである。
モンゴル治下では、モンゴル政権との縁故か、実力か、そのどちらかでもあれば、人種に限らず誰でも登用されていたのである。

であるからこそ、元帝国が隆盛を極め、日本が「蒙古来襲」で散々な目にあうほどの力を持っていたのである。
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