歴史の散歩道 -7ページ目

秀吉の野望  唐入り・朝鮮出兵の発令

天正19年(1591)12月、肥前の名護屋城の築城が進行する中秀吉は「唐入り」・(明国出兵)の作戦指揮に専念する為に、自らは関白を辞任して太閤と称し、関白の地位を姉の子で自分の養子に迎えた秀次に譲った。


 明けて文禄元年(1592年)正月、秀吉は朝鮮出兵を号令し、全国諸大名を名護屋城に集結させた。  ルイス・フロイスは秀吉の大陸出兵を聞いた時、その構想がうまくいかないであろう理由を著書「日本史」で列挙している。


1、日本人は他国人と戦争する事に訓練されていない。

2、交通路も、航海路も敵方の言語や地理も全く知らない。

3、海軍力あるいは船舶、水夫が不足している。

4、短期間に必要な武器、食料、弾薬を調達する事が困難である。

5、日本国中が叛旗を翻す可能性がある。


 実際の朝鮮の役(文禄・慶長の役)では、最後の「国中が叛旗」という予想は、諸侯や武将達の秀吉に対する「不思議なほどの遠慮や畏怖の念」で外れたが、秀吉の水軍の不振、朝鮮への圧倒的な明の援軍、朝鮮民衆の義兵運動で、フロイスの見通しはほぼ的中し、秀吉の大陸征服構想は失敗に帰するのであった。  


世に具眼の士はいるものである。ルイス・フロイス・・・流石に万里の波濤を越えて異郷に派遣されただけあって的確に秀吉軍の前途を予想している。 "

秀吉の野望 李氏朝鮮国

 李氏朝鮮国は、1392年に倭寇討伐で名声を得た李成桂が建国した。


 秀吉の大陸征服行動の頃には、建国以来200年近くの歳月が平和裏に流れ、軽武崇文、すなわち武官を蔑み、文官を尊ぶ傾向にあった。  


士族(貴族階級)は両班(ヤンパン)と呼ばれ、文班・武班の二つを意味したが国政においては圧倒的に文官が優越していた。

国王のもとでの御前会議(議政府)は文官のみで行なわれ、軍務大臣である兵曹判書も文官であった。


 つまり、李氏朝鮮国の軍隊は今日の日本の自衛隊に極めて近い、完全なシビリアン・コントロール下におかれていたのである。


 国政は明国皇帝から朝鮮国王であることを認知され「冊封・(封爵)」を受け、明国皇帝に臣属し、朝貢を基本とする冊封体制で中国との友好と国境を維持し平和を望む、硬直した儒教的支配体制であった。


 この冊封体制というのは、宗主国(明)と藩属国(朝鮮)の関係を宗属関係というが、明は朝鮮の内政に口を挟むものではなく、封爵と朝貢の儀式のみを行い、民族・国家が独自性を保持し、相互にその存在を認めあう共存の体制であった。 "

秀吉の野望 秀吉の国際感覚

 ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・フロイスの報告書によると、信長は日本を統一した後に大艦隊を編成して中国大陸を征服すると述べたという。


 秀吉はそれに呼応するかのように、朝鮮に近い福岡県の一部である筑前守の官職名を願い出た。  秀吉の大陸に対する態度も、当初は信長のそれを引き継ぐ形で、明国との勘合貿易の再開を主とする通商関係の樹立が本来の目的であった。


 秀吉の頃には東アジアの国際情勢も大きな変化を見せていた。秀吉は堺・博多の豪商達と小西行長ら側近たちの情報から、イスパニア人がメキシコのマヤ帝国やペルーのインカ帝国を冷酷無残に亡ぼし金銀を奪い、原住民を奴隷的境遇に落としいれたことも、ポルトガル人がアフリカで奴隷貿易を行なって不正義な富をむさぼっている事も、これら西洋諸国がアジアを植民地化しつつあることも、正義を唱えるカトリック・キリスト教会が有効な批判を行なわないことも知っていたと思える。


 そのような中で秀吉は、東アジアにおいて明の力が衰えていく様子を強く実感していたと思われる。  このように考えると、明の討伐を目標とした大陸征服構想には、秀吉が国内の統一を成し遂げた自信と勢いのもとで、明に代わって東アジアの「天下統一」を目指そうとした構図が見えてくる。 "

秀吉の野望  秀吉の軍事力

 秀吉は最大のライバル・徳川家康を臣従させる事により、その政権は政治的にも軍事的にも安定し且つ強力なものとなった。


薩摩の島津も、小田原の北条も秀吉の上洛命令に従わず、その結果秀吉の軍隊によって打倒され、あるいは亡ぼされてしまう。


  それまでの戦争というものは農閑期には戦い、農繁期には休戦に入ると言う牧歌的な性格のものであった。  

それらの戦いを織田信長が兵農分離を断行し、さらに鉄砲と言う新式で強力な武器と専門戦士と合体させる事で、鉄砲足軽隊を中核とする極めて機動性の高い強力な軍団を創出していった。


 秀吉は信長の創出した兵農分離型軍団を手中にするとともに、秀吉自身の創案による兵站と補給のシステムを具備させた。 それまでの軍隊での兵糧の調達は各自持ちであり、敵地で兵糧が欠乏すれば農民の蓄えを略奪して自軍の食料とする事は日常的な行為であった。


 信長といえどもこの問題ではなんら解決することなく突然生涯を終えてしまった。


この大問題を系統的に対処したのが秀吉である。

秀吉はこの兵站と補給の問題を戦略の基軸に据え、計画的に弾薬・兵糧の調達と備蓄を行い、こうした任務を専門とする輜重部隊を持って戦地へ継続的に輸送する事によって、長期の遠征・あるいは数ヶ月にわたる敵城の包囲作戦を完遂する事が可能となったのである。


 兵農分離型軍隊の長期転戦能力を存分に生かすためは、武器・弾薬と兵糧の継続的な補給システムが不可欠であることを秀吉は十二分に感得していたことが、秀吉の軍隊を無敵・不敗の常勝軍団としたのである。 " "

秀吉の野望  関白政権

関白職はもとより公家の官職であり、公家社会における最高位を意味している。
関白職と言うものについて秀吉は、

 天皇より「御剣預かり候」て「天下の儀・きりしたがゆべき」職であると述べ、この公家官職に武装を付与して、本来の律令的権限のみならず軍事的統率者としての権能をあわせたものであるとする。

 「日本六十余州の儀、改め進止すべきの旨、仰せ出さるるの条、残らず申し付け候」として、「叡慮」(天皇の意向)によって日本の六十余州の「進止」、すなわち全国統治の権限が関白である自分に委任されていると強調しているのである。

 このように秀吉の関白職は、伝統的な朝廷・公家・寺社の世界を支配するのみならず、武家領主の軍事的世界をも支配する権能を帯びたものとして位置付けられることとなった。

 それは「惣無事・そうぶじ」と呼ばれる、全国各地での領土紛争を巡る私戦の禁止と秀吉の裁定への服従強制、そしてその違背者に対する制裁としての軍事討伐と言う形態を持って行なわれた。

 秀吉の天下支配の政治体制は、このような権限内容をもった関白職を機軸として構築されていたのである。 "

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秀吉の野望  朝廷官位の活用

 

秀吉が覇権の確立の為朝廷の官位に執着を示して、天皇の権威を持ち出すようになるのは、徳川家康との小牧・長久手の戦いが不首尾に終わった頃からである。


その軍事的失態の傷を癒し、軍事的圧伏に変わる別の手段として、朝廷官位と天皇権威による支配を前面に持ち出すこととなるのである。

 秀吉の官位の昇進は異常な速さを見せており、小牧の戦いが終わった直後、
天正133月正ニ位内大臣と言う、秀吉のような血統上の由緒を持たない出自の者としては全く破格の公卿高位の身分へと昇進する。

 秀吉はさらに、元関白の近衛前久の猶子(名義上の子)となり、天正137月に従一位へ昇叙して関白に任じられた。
(翌天正14年には太政大臣を兼ね、あわせて豊臣の姓を朝廷から与えられた)。

 近衛前久も秀吉が天下を実際に掌握しうる実力者であり、そのような者が関白職を保持するのは当然であり、公家社会も、又それを受け入れるべきであると言う考えを持っていた。
秀吉あっての朝廷であり、公家社会であるという考えが次第に浸透して行った。

 秀吉の黄金と類まれなる政治力とで、朝廷・公家社会との協調関係は順調に発展していき、秀吉の天下統一戦略も、そして又宿敵・徳川家康の臣従化もまた、この路線の上で実現されていくのである。

 すなわち、秀吉は天正1410月に徳川家康を上洛させて自己に臣従させる事に
成功するが、軍事的に屈服させることが出来なかったのにもかかわらず、
家康をして秀吉に臣下の礼を取らせる事が出来たのは、実に関白と言う地位があればこその事であった。

つまり朝廷の権威を利用しての事である。

信長の破綻がよき教材となったとも言える。

秀吉の野望  天下統一

 天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が倒れた時、信長配下の武将達は、信長の天下統一の戦略に従って全国各地で諸方の戦国大名と対峙の状態にあった。


その為信長が明智光秀に討たれた時、畿内は一種の真空状態にあって光秀にたいして組織的反撃を加えられる条件が整っていなかった。


 そのような中で秀吉は変報を受け取るや、ためらう事無く毛利方との講和を取りまとめ、直ちに兵を引き連れて取って返し、畿内近国の織田方勢力を糾合して光秀との決戦に臨み、山城(京都府)の山崎の戦いで光秀を討ち亡ぼした。


 主君信長の復仇を果たした秀吉は、織田家中に於いて一躍重きをなすに至ったが、しかしそれだからと言って、直ちに信長の獲得した天下が秀吉の手中に納まるものでもなかった。


そこに至るには、競争者たちとの長い覇権闘争を必要とした。 " "

細川幽斎(完)  人生の達人

慶長59月細川幽斎は大坂に行き、家康に会い御礼を申し上げると、家康は田辺城籠城の事を褒めて「何にてもあれ望みのままにこの度の恩賞としてかなえてやろう」といったが、幽斎は堅く固辞した。

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月に入って、細川忠興は家康より豊前国を拝領し、丹後23万石から豊前小倉369千石の大名となった。
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ヶ月間の田辺籠城の心身の疲労がたたってか、この頃、幽斎は散々の体に煩っていた。

「細川家記」によれば
慶長15年(1610)夏の頃より、なんとなく煩い気味であったが、8月に至り次第に容態が悪化し、820日午後3時前、三条車屋町の屋敷で逝去した。年76歳。
細川幽斎から古今伝授を受けられた智仁親王は寛永2年(1625)古今集の奥儀を後水尾天皇へお伝えになり、後水尾天皇はこれを後西天皇へ伝えられた
細川幽斎の智仁親王に対する古今伝授は、ここに御所伝授として脈々と禁裏の中に受け継がれていったのである。

松永貞徳は師の細川幽斎を
           「しおらしき大名」と評した。

しかし、義昭・信長・秀吉・家康らのしがらみを見事に絶ちきり、戦国時代の疾風怒濤を乗り越え山城国西岡青龍寺のわずか3千貫の所領より立ち上がり、嫡孫の忠利にいたり肥後熊本54万石の大名となる基を築いた細川幽斎は、、したたかな生命力に溢れた人物であった。

まことに人生の達人と言えよう。

                 天才!信長   細川幽斎  (完) "

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細川幽斎   大坂方に攻められ田辺城に篭城す

慶長5718日に丹後・田辺城の幽斎のもとへ大坂から飛脚が到着し昨17日に忠興夫人(お玉)が生害したとの報告が届いた。
仰天しているところに追っかけて石田一味の兵が丹後に攻め入るとの知らせがあった。

「細川家記」によれば
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19両日のうちに家中の者は、幽斎の命令により諸城を悉く明け退き田辺城に集合した。
幽斎は籠城の様子を関東に在陣する忠興に知らせようと思ったが敵の陣所の警戒が厳しくなかなか実行できなかった。

智仁(としひと)親王を中心とした細川幽斎救出活動の結果、
禁裏ではいよいよ宸襟を悩まされ「幽斎討ち死にせば、本朝の神道奥儀、和歌の秘密永く絶えて神国の掟も空しかるべし、古今伝授を禁裏へ残さるべし」との趣旨を貫いて、大坂の豊臣方へ勅旨を下され、前田玄以に対し「急ぎ田辺の囲みを解き、幽斎を城より出すべき」旨を仰せ付けられた。

幽斎は古今集の伝授者として生き残るべしとなった。
しかし、幽斎は敵の謀計で和議のことを言ってきたのだろうと考え断る。

そこで天皇は3人の勅使を下される。
「幽斎玄旨は文武の達人にて、殊に大内(宮中)に絶えたる古今和歌集秘奥を伝え、帝王の御師範にて、神道歌道の国師と称す。今玄旨、命をおとさば世に是を伝うる事なし。速やかに囲みを解くべし」との事であった。

是を聞いた大坂方の諸将は畏まって了承した。
勅使はすぐに前田玄以子息を案内者として田辺の城に入り叡慮の趣をねんごろに伝えたので
幽斎は勅使を饗応し城を出る決心をした。

いずれにしても幽斎は武人としての意気地を脇において、古今伝授の事によって禁裏を動かし、田辺籠城の家士・女子供・僧・地下の者たちの命を救ったのである。

幽斎は天下分け目の戦に身を処するに当たり、血なまぐさい争覇の世界を
外に見て生きながられる方途を策し、歌・太鼓・笛・鞠・踊り・茶・香さらに包丁道までもに心を引かれ、風流に身をやつす道を選んだと思われる。 "

細川幽斎   ガラシャ

慶長5616日、家康は大坂を立ち上杉景勝討伐の為会津へ出発した。

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月に入って石田三成は豊臣家のため家康打倒の軍を挙げることを決意し、佐和山城を出て大坂城に入った。
三成らは、家康東征軍に従軍した武将らの妻子で大坂に残った者達を人質として大坂城に収容することを図った。

レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」によれば

細川忠興の家老小笠原少斎は、もし夫人お玉(ドンナ・ガラシャ)の名誉が危機に瀕した場合には、日本の習慣に基づいて、先ず夫人を殺し、次いで他の家臣と共に切腹せよとの忠興の命令を受けていた。


小笠原家老が夫人に夫の命令を伝えると、ドンナ・ガラシャは運命に忍従して祈祷所に入って祈った。


ガラシャはひざまずいて剣の前に首をさしのべ、家臣は屋敷に火を放ち後に切腹した。


お玉はこの時38歳。父明智光秀の業を背負った半生であった

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18日丹後・田辺城の幽斎のもとへ大坂から飛脚が到着し、昨17日、忠興夫人(キリスト教名・ドンナ・ガラシャ)が生害したとの報告が届いた。 "