歴史の散歩道 -5ページ目

家康の知恵袋  林 羅山

林羅山は家康の知恵袋として重用され、家綱まで4代に渡り侍講として仕えた。


君臣豊楽、子孫殷昌」を豊臣を君主にしてその子孫の繁栄を楽しむとこじつけ、右大臣の唐名である「右僕射源朝臣」についても、源朝臣すなわち家康を射殺する意味に相違ないと付会したのである。

 銘文が当代の大智識・南禅寺長老清韓文英と承知の上での言いがかりである。
幕府御用学者として、林羅山が家康の意に沿うべくひねりだした追従であった。

 家光の代になり、崇伝や天海の亡きあと、林羅山が彼らの取り仕切ってきた法令文、国書の選定を一手に引き受けるようになり幕府儒官の地位を確かなものとした。

 それからも林家は官儒の頂点・大学頭となり朱子学をもって封建的幕藩体制を支える役割を果たし、幕末に至るまで連綿として続いて行くのである。


 
のち、「国家創業に際して大いに寵任され、朝議を起こし律令を定める。大府(家康)の用いた文章で林羅山の手を経ないものは無い」とまで言われた。
 
  林羅山は京四条新町の町屋・林家長男・信勝として生まれて朱子学を学び儒学者の道を選ぶ。

 林羅山の名が上がったのは慶長19年、方広寺の鐘銘事件であった。 
金地院崇伝が「国家安康」にクレームを付けたのに続き、林羅山も意見書を提出する。

家康を神格化   南光坊 天海

 南光坊天海も崇伝と同じ慶長13年に家康に招かれて駿府城に登り天台宗の教えを説いた。が、崇伝とは異なり国政には容喙せず、秀忠や家光にももっぱら祈祷をもって仕えた。  


家康は「天海僧正は人中の仏ともいうべきお方である。惜しむらくは、出会いが遅すぎた」と語ったと言われる。


 天海の名をより高めたのは、元和2年4月、家康が死の床に、天海・崇伝・本田正純の3名を呼び「遺体は久能山に納め、一周忌が済んだら日光山に堂宇を立てて勧請せよ。関八州の鎮守となろう」と遺言した事に始まったが、葬儀を巡って天海と崇伝が激しく対立したのである。


 崇伝は吉田神道により、「し号」を大明神とすべしと主張し、一旦は遺骸を久能山に葬った。が、天海は、まだ墓の土も乾かぬうちに参拝した秀忠の前で異を唱えた。


天海によれば家康は、神号を権現として祀るように言い残したというものであった。権現とは仏が仮に神と成って現れるとする考え方である。


 崇伝と本田正純は、そのような遺言は聞いていないと反論したが、天海はひるまず、秀吉が豊国大明神として祀られた例を引き合いに出して反撃した。


豊臣家の末路を思えば、大明神がいかに不吉な神号か判るではないかというのである。  そう言われては秀忠も同意せざるを得ず、遺体を久能山から日光山に会葬し、神号も朝廷から示された「東照大権現」とした。


こうして天海は幕府守護神の祭祀者の地位を手にしたのである。  崇伝にかわる新・黒衣の宰相の誕生といえるのである。神道内部の勢力争いであり、織田信長の比叡山焼き討ち以来衰退していた天台宗再興の情熱が、天海をしてこうまでさせたものであろう。


 天海は紫衣事件でも厳科を主張する崇伝と対立し、穏便な処置を説いて天下の人気を得た。寛永元年(1624)には秀忠の依頼で江戸忍岡に東叡山寛永寺を建立し開山となる。


没後は朝廷から、慈眼大師を贈られた。


 尚、崇伝は神号問題をめぐって天海僧正との論争に敗れ、又寛永4年(1627)、家光の時代に勅許による僧侶の昇進を無効としたいわゆる紫衣(しえ)事件では、法度に違反した沢庵和尚達を流罪に処するよう強く主張、その厳酷な態度から「大欲山気根院僭上寺悪国師」と世の批判を浴び、程なく出番を失っていくのであった。 " "

黒衣の宰相  金地院崇伝 -2

   慶長19年(1614)7月、幕府御用僧・金地院崇伝の名を歴史に刻む事件が起こった。  


豊臣秀頼の勧進で行なわれていた方広寺・大仏殿落慶供養を目前にして、梵鐘に刻まれた「国家安康」の銘文に、家康の名を引き裂き徳川家を呪うものであるとクレームを付け、大坂の陣に持ち込むきっかけを作ったのである。  


そして大坂冬の陣が終わるや、禁教令に基づき宣教師と切支丹大名・高山右近ら有力な日本人信者の大量国外追放を建言、実現させた。

来るべき大坂夏の陣を控え、全国の切支丹信者たちが豊臣方に加担するのを防ぐ為に他ならなかった。


 豊臣家が滅亡した直後、崇伝は伏見城に集まった諸大名を前に、自ら起草した「武家諸法度」を読み上げた。それは13か条からなり、大名間の無断婚姻禁止・参勤作法の遵守・居城の修理や新造の禁止他、厳しく大名を統制する施策である。


 続いて崇伝は17か条からなる「禁中並公家諸法度」も起草した。天皇を先例に関する知識・学問の管理に専念すると限定して政治から遠ざけ、主な公家の席次・任免・昇進・刑罰・僧侶の昇格などについても規制したのである。


従来の朝廷と幕府の関係を逆転させたわけで、幕府にとってその功績は絶大なものであった。 それらの功績により、金地院崇伝は10万石の所領を与えられ大名並みの待遇を受けた。 " "

黒衣の宰相  金地院崇伝-1

 金地院崇伝は足利義輝の家臣・一色秀勝の二男として生まれ、室町幕府の滅亡を機に幼くして臨済宗禅寺霊山のもとで出家し、後に南禅寺塔頭の一つ金地院に住んだので今地院崇伝の名があり、鎌倉建長寺の住持にもなった。


 慶長13年(1608)大御所・家康に召しだされ外交文書の起草を行なうようになる。

まだ37歳の若さにして、京や鎌倉五山の上位に立つ南禅寺の住持という禅僧としては最高位の身分であった。


 慶長17年、京都所司代板倉勝重とともに寺院行政をつかさどるようになりキリシタン禁令を奏した。慶長19年12月家康から2回目の禁令を奏するよう命じられた崇伝は夜を徹して構想を練り、一番鳥の声とともに筆を起こして日の出までに書き上げた。


 日本で布教活動を行なう宣教師をポルトガルの侵略的植民地主義の尖兵と喝破、神国たる日本の敵と位置付けるものであった。 "

家光  幕藩体制を確立し鎖国を完成

 実弟で最大のライバル・駿河大納言忠長を改易した同じ寛永9年(1632)5月、家光は肥後熊本54万石の太守加藤忠広を突如改易している。忠広は加藤清正の嫡男である。


 家光は二代将軍秀忠以上の大名統制策を推し進めた将軍であった。その治世下に改易された外様大名は29家、譜代・親藩20家を数える。 改易総石高は約400万石となった。


 家光は老中・若年寄・三奉行などの老中制を確立するなど、幕府の政治機構と組織の確立に意を注ぐ。 さらに武家諸法度を改訂強化し、参勤交代の制を定めた。又軍役令を定め農民法令も整備した。そして鎖国体制を完成させる。


 家光の治世を考える上で抜かす事が出来ないのが、鎖国政策であり、徹底したキリシタン弾圧であった。家光は徹底したキリシタン嫌いであった。 諸大名には繰り返しキリシタン狩を命じ、幕領でも踏み絵などによる執拗なキリシタン信徒のあぶり出しを行なった。改宗しないものには容赦なく火あぶりの刑に処したり惨殺したりした。


その結果勃発したのが寛永14年(1637)10月の一揆に端を発する島原の乱であった。  この島原の乱が家光に鎖国の意思を決定的に固めさせた。


幕府は島原の乱をキリシタンによる暴動と位置づけ、この根源を断つためポルトガル船の寄港を一切禁止し、ポルトガル人を追放したあとの長崎の出島にオランダ人だけを移し、ここだけを幕府による外国との唯一の窓口とした。


家光の時代に、徳川幕藩体制はほぼ整った。ここに徳川家が諸大名に絶対的優位であると言う権力構造の基礎が確立されたのである。 " "

家光  三代将軍に就任

 元和9年(1623)7月、秀忠は将軍職を家光に譲り、ここに三代将軍家光が誕生した。

家光は20歳、秀忠は45歳であった。


将軍職について勇んだ家光であったが、実際には大御所秀忠が居て思うようにならなかった。名実ともに将軍としての実権を握るのは、父秀忠の死を待たなければならなかった。


 秀忠が没したのは寛永9年(1632)正月の事である。54歳。


秀忠の没した年の10月、家光は弟・駿河大納言忠長を乱行を理由にして、55万石の封地を没収し幽閉した。


そして、翌寛永10年の12月、忠長を自刃させてその命を絶った。 " "

二代将軍・秀忠  改易と廃絶の政治

 竹千代が元和6年17歳で家光と名をあらためる。

同時に15歳の実弟・国千代も元服し忠長と改めた。家光が伏見城で征夷大将軍の宣下を受けて正二位・内大臣に昇進したのは20歳の元和9年(1623)である。


 二代将軍秀忠は大名の粛清の刃を縦横無尽に振るい続けた。

大名が廃絶される原因は三種類あった。  

① 敗戦

② 無嗣のまま死亡

③ 幕府の処罰である。


敗者の大名を続々と廃絶させたのは家康であって、秀忠と家光が第二、第三の理由による大名処分を断行する。

 無嗣廃絶の大物の第一号は備前岡山で51万4千石の小早川秀秋だが、慶長7年(1602)だから家康の時代である。

武田信吉(家康の5男)・松平忠吉(家康の4男)・平岩親吉(三河以来の功労者筆頭)・本多忠刻(千姫の夫)・等、徳川の一族や関係の濃い者でも容赦は無い。


 関が原合戦の端緒をつくった鳥居元忠の子孫の鳥居忠恒が寛永13年(1636)に無嗣廃絶の憂き目にあう。

家康はつねづね「伏見城で死んだ鳥居たちのことを思うと涙が止まらない」とまで称賛を惜しまなかったが、それでも「無嗣死亡は断絶」のルール適用を除外される事は無かった。


 慶長7年(1602)の小早川秀秋から慶安元年(1648)の織田信勝まで、無嗣廃絶された大名家は56家、没収された領地の合計は440万石をこえる。  大名が廃絶されると膨大な数の浪人武士が発生する。


浪人は職と食を求めて移動する。

九州の天草・島原で起こったキリシタンの反乱は、裏を返せば職と食を求める浪人の決起であった。 "

家康  家康の死 東照大権現

 元和2年(1616)正月元旦、江戸城の新年祝賀の儀式では例年と異なる光景が見られた。竹千代(家光)と国千代(忠長)の間に、あからさまな処遇の差がつけられていた。


 将軍秀忠が直垂の正装で黒書院に着座、続いて竹千代が秀忠の左の座についた。それから国千代が太刀目録をささげて出座し、祝賀の言葉を述べた。 


国千代は新年祝賀の辞を受ける側ではなく、祝賀を申し上げる側に下げられている。  ここに大奥に渦巻いていた三代将軍の椅子の主を巡る暗闘に明らかな決着がついたことが確認されたのである。


 この正月鷹狩に出ていた家康は田中で発病した。

3月27日、勅使の広橋兼勝と三条西実条が家康を太政大臣に昇格させる宣命を伝えた。  家康が75年の生涯を閉じたのは元和2年(1616)4月17日であった。


 わが霊は駿河の久能山に神として祀れと家康は遺言をしていた。遺体は久能山に神として祀り、祭礼は江戸の増上寺で行い、1年を過ぎたら日光山に小堂を立てて久能山から霊を勧請せよと言うものだった。  日光山の霊として祀られ、関東八州の鎮守の神となって永遠の時を生きていくのが家康の念願だった。 "  

家康  二代将軍 秀忠

 秀吉の朝鮮侵略戦のとき、家康は豊臣政権の中枢を占めていたので肥前名古屋(佐賀県鎮西町)まで出陣し、その後も大坂あるいは京都の伏見城で過ごす事が多くなった。  


江戸の留守を守り、城と町づくりを押し進めたのは秀忠であった。

もちろんまだ少年なので実際は重臣達の手になるものである。家康の最も信頼できる家臣の一人で実力者の大久保忠隣が秀忠の後見人となっていた。


秀忠が結婚したのは17歳のとき、文禄4年9月のことであった。相手は6歳年上で、しかも初婚ではなく三度目の結婚であった。

その相手とは、浅井長政とお市の方の三女小督(おごう・お江)である。


 お市の方の長女淀殿は秀吉の側室であり、小督は秀吉の養女として秀忠に嫁したのであった。これは時の天下人秀吉の肝いりによる強引な婚儀であった。


 当時の結婚はほとんど政略的なものであり、本人の意思とは関わり無く決められるものであったとは言え、遥か年上で二度も出戻った女性であれば、秀忠にとって意に染まぬものであったであろう。


 ところが案に相違して、秀忠は美人だが気の強かったというこの年上の妻にすっかり惚れ込んでしまうのである。


 秀忠はこの正婦人との間に八人の子をもうけ、殆ど他の女性をかえりみなかった。わずかにお静と言う側室に保科正之を生ませているが、正婦人に知られぬようにこっそりと育てさせた。 " "

家康  征夷大将軍に就任し幕府を開く

 関が原の戦後処理、論功行賞は全て家康の主導によって行なわれた。

関が原の大勝利から二年後、ニ条城を築いて京都の拠点とするなど、家康はもはや実質的な天下の支配者であった。


 だがたてまえは、あくまで秀吉の遺児秀頼を立てると言う形を取り続けた。

慶長8年2月8にも、家康は大坂城に赴いて秀頼に年賀の挨拶を述べている。しかし、この日が、家康が秀頼に対して臣下の礼を取った最後の日となった。


 4日後の慶長8年2月12日、家康は朝廷より征夷大将軍に任じられ、名実ともに武門のトップ、政権の担当者となる。


 江戸幕府の始まりである。  62歳。


天下人たらんことを胸に秘めて徳川と改姓してから37年の歳月が過ぎていた。 "