歴史の散歩道 -3ページ目

通商国家・カルタゴ の興亡---- 11         

劣勢のカルタゴ        


 第二次ポエニー戦争は、ハンニバルがスペインを出発し、ピレネー山脈を超え、ローヌ河を渡り、アルプスを踏破してイタリア半島へ侵入した事に始まる。


 ハンニバルはいたるところで快進撃を続けたが、ローマ軍を何よりも悩ませたのは、ハンニバルに忠誠を誓う傭兵部隊のヌミディア騎兵隊だった。

無敵を誇ったローマ歩兵軍団も、ヌミディアの騎兵にかく乱されるとひとたまりも無かった。  第二次ポエニー戦争が始まってから、すでに10年近い歳月が過ぎ、ハンニバルはイタリア半島を転戦していたが、ローマ軍はじりじりと巻き返し、戦局はようやくカルタゴ側に不利に傾きかけ、前211年、ハンニバルはイタリア半島のかかとの辺りまで追い詰めれる始末に到った。


 ローマの若き将校・スキピオは、前209年にスペインをカルタゴから奪取。ハンニバルの弟もローマ軍に撃破され、その首がハンニバルの陣営に投げ込まれてしまう有様となった。シチリア島もローマの手に渡り、カルタゴの敗色は歴然たるものとなっていた。


 スペインで大きな戦果を得たスキピオは,ローマに戻るや執政官に選ばれる。こうして、ローマは是までの防衛戦から、一気にカルタゴ攻略に踏み切ったのである。


 第二次ポエニー戦争最後の幕は、ハンニバル対スキピオの戦いとなっていくのであった。 この若き執政官・スキピオは、のちに大アフリカヌスと呼ばれるほどの偉大な英雄である。 まさに英雄対英雄の戦いではあるが、カルタゴの劣勢は覆うべくもなかった。 "

通商国家・カルタゴ の興亡---- 10               

海の民  カルタゴ人


 カンネーの戦いに大勝し、ローマをして風前の灯火の恐怖を抱かせたハンニバル。

 第二次ポエニー戦役における、前216年8月2日の夜、ハンニバル軍の指揮官達は口々に、ただちにローマに進撃すべきであると主張した。


 もしハンニバルが将軍達の意見をいれて、ただちにローマ攻撃に移っていたら、ローマは潰えていたかもしれなかった。

だが、ハンニバルはその進言を拒否した。


 天才的な軍略家のハンニバルには、ローマ攻撃・包囲戦が長期持久戦になるだろうし、そうなるとローマ側に立つイタリア諸都市が一致して背後からハンニバル軍を脅かし、糧道を立たれる事を怖れたのである。


 しかし、あまたの戦術上の予想よりも、カルタゴ人特有の考え方が、ローマ攻撃をハンニバルに思い留まらせたと見るべきであろう。


 それは、もともと海の民であるカルタゴ人は領土的野心を持たなかった

カルタゴ人にとって都市はあくまで経済活動の拠点に過ぎず、それを征服し、占領し、統治するなどと言うのは、およそ無駄な事であり、この上なくわずらわしい努力に思えたのである。


 かくして、ハンニバルはローマをめざすことなく南イタリアに向かって行ったのである。

 ハンニバルの目は、弱りきった都市ローマに注がれていたのではなく、カルタゴの重要な基地であるスペイン、シチリア、サルディニア島、イタリア全体に配られて、カルタゴ貿易網を復活させるのが本意であった。


 つまり、カルタゴ人の目的は「富の追求」であり、都市はそのための機能さえ果たせば、それで十分だったのである。 "

通商国家・カルタゴ の興亡---- 9

                  完敗したローマ

BS216年・・カリクラ峠の火牛戦術
ハンニバルは戦利品として得た2000頭の牛の角に松明をくくりつけ、その牛を高みに追い上げ、夜になるのを待って松明に火をつけた。
驚いた牛の大群は狂奔し、八方に散ってローマ軍を狼狽させ甚大な損害を与え勝利した。

カンネーの戦い(前216年8月)

イタリア半島での最大の会戦となったカンネーの戦いは、ハンニバル軍5万・・ローマ軍8万であったが、ローマ軍は壊滅的打撃を蒙ってしまった。

ハンニバルの戦いの基本的な戦法は
テナイア(ぺンチ)と呼ばれる陣形で、前線の中央部に歩兵を置いて敵を誘い、深追いさせた所で、両側から騎兵が囲い込み、殲滅させるという得意の戦術である。

ローマ軍はこれまでも、この作戦にひっかかり散々な敗戦の憂き目にあっているのに、カンネーの決戦でもまんまと引っかかり、カルタゴの大勝利に終わる。

ローマ側の戦死者は全滅に近い7万人とも言われ、司令官も命を落とした。是に対してカルタゴ軍の損失は6千人。
如何に圧倒的な勝利であったかが判る。

勝ちに乗じて一挙にローマを衝くか、それとも慎重に構えて、まず南イタリアをカルタゴ側につけ、それから事を運ぶか・・・・・・ハンニバルの前にはこの二つの道があった。

その選択こそ、まさしく「運命の岐路」であった。
そして、ハンニバルは後者の道を選んだのである。

将に運命はローマに微笑んだ瞬間であった。
そして、それはハンニバルの、又、カルタゴの滅亡のはじまりでもあった

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通商国家・カルタゴ の興亡---- 8

        ハンニバル(BC247~BC183)
       
カルタゴの名将ハンニバルは、稀代の戦術家・戦略家であった事は間違いない。

ハンニバルが軍隊に推されて最高指揮官の地位に着いたのは、若干まだ26歳の若さであった。
いつの世にあっても、指揮官の頭脳だけでは兵士は動かない。、まして、カルタゴの軍隊の大半は外人部隊、つまり金でやとわれた異民族からなる傭兵部隊との混成部隊だった。

そうした大集団をどのようにして統率したのだろう。
「威令・それを徹底させる信頼、それを集めるだけの行動力と人柄、それらがかね備わっていないかぎり不可能である。

ローマの史家・リビウスは、このように評している。

「危険に際してハンニバルが示した計り知れない勇気、と同時に、この上ない判断力、どんな困難も彼の体力を損なったり、気力を挫くような事は無かったし、暑さに対しても寒さに対しても同じように平気だった。

食べたり飲んだりすることも、あくまで生理的欲求に従うだけで、快楽の為ではなかった。
おきるのも寝るのも夜昼関係なく、仕事が済めば睡眠をとる、それだけの話だった。

眠るといっても、柔らかいベッドだの静けさを求めるわけではない。
一般の兵隊と同じ外套にくるまって、衛兵や歩哨とともに地上に横になるだけであり、
服装も普通の兵士と変わる所も無かった。

ただ武具と馬だけが目立つくらいだった。

騎兵・歩兵部隊のなかにあって、彼は紛れも無く第一人者であった。
戦闘になると、真っ先に進み、戦場をあとにするときは、常に最後だった。」

やはり、当時の世界で並ぶべき国が無かった超軍事大国・ローマを敵に回して、17年間も戦った英雄だけのことはある。

アレキサンダー、ナポレオンにも匹敵する率先垂範の鑑でありハンニバルは英雄といえる。
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通商国家・カルタゴ の興亡---- 7

      
  ハンニバル(BC247~BC183)

ローマとカルタゴとの間で戦われたところの、ハンニバル戦争と呼ばれた第二次ポエニ戦争は足掛け17年も続いた。

 第一次ポエニ戦争の24年に較べれば短いといえるが、ハンニバルはこの長い年月を一人で支えたのである。
まさに超人であるといえる。
 
 しかも、相手は世界に名だたる軍事大国のローマである。

そのローマのフランチャイズであるイタリア半島に15年間も陣取って、ローマ元老院を顔色なからしめたハンニバルと言う将軍は、将に偉大な名将といえる。
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通商国家・カルタゴ の興亡---- 6

            名将 ハンニバルのアルプス越え          
 フェニキア人はカナンの地から北アフリカに渡り、現在のチュニジアの首都チュニスの地に新しい町を作った。
そこで、その町はカルト・ハダシュト(新しい町)と呼ばれ、ローマ人はここに定着した人たちをカルタゴ人と称したのである。

カルタゴとローマの間で、三度にわたって繰り返された戦いを「ポエニ戦争」という。
「ポエニ戦争」とは「フェニキア戦争」と同義である。

ポエニ戦争といえば、何より有名なのがハンニバルである。
ローマと24年戦って、ついに敗れたカルタゴは、やがて戦後の混乱を乗り切って、再びローマと対決する。

 その立役者がハンニバルであり、彼の総指揮のもとに17年間戦われた「第二次ポエニ戦争」は別に「ハンニバル戦争」とも言われた。
ハンニバルは稀代の戦略家であり,戦術家であり、政治家であり、学識にも優れ、人間的にも大変魅力ある人物だったのである。

 ハンニバルをして、人々の胸に長く記憶させたのは、通常ではとても考えられないような、
はなれワザを彼がやってのけたからである。
それは何万という軍隊とともに、象の群れを率いて冬のピレネー山脈を越え、スペインからイタリアへ進軍した事である。
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通商国家・カルタゴ の興亡---- 5

          カルタゴの悲劇はシチリア島で始まった。

 フェニキア人が北アフリカの一角、現在のチュニジアの地に、
「カルト・ハダシュト(新しい町)」を築き、その町は「カルタゴ」と呼ばれた。

 カルタゴは精力的な経済活動によって、
地中海沿岸の各地に早くもいくつかの重要な交易基地を手にしていた。
なかでもカルタゴが重要視したのは、シチリア島であった。

 シチリア島の位置づけとして、北アフリカのカルタゴか、イタリア半島よりのギリシャ・
ローマの、そのどちらかに身をゆだねるかで、地中海の覇権はきまる。

 カルタゴの誕生の始まりから、ギリシャと後に勃興する軍事大国・ローマとの激突は歴史の必然であった。

 カルタゴは富国を望み、ローマは強兵をめざす
当初ローマはイタリア半島だけに気を取られていたが、しだいに外の世界に眼を向けたとき、
強兵の為には富国が不可欠の条件である事に気がつく。

そこで、シチリア島をめぐっての、カルタゴとローマによる宿命の戦いがはじまるのである。
世に言う・・「ポエニ戦争」である。 "
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通商国家・カルタゴ の興亡 ---- 4

                富の毒富とは・・・・バラの花のようなものである。

 誰にとっても、富は好ましく、望ましいものであるが、そこにはきまってトゲが隠されている。


  トゲとは周囲からの羨望である。・・嫉妬である。


 そしてねたみはついに敵意をかもしだす。 まさに欲望は憎悪の母であるからである。 それだけではない。富はその所有者自身にも、わざわいをもたらさずにはいない。そのわざわいとは、自分自身のおごりとたかぶりである。


 「エゼキエル書」にいわく。

 「お前は取引が盛んになるとお前の中に不法が満ち罪を犯すようになった。・・・お前は栄華ゆえに知恵を堕落させた。・・・お前の心は富のゆえに高慢になった。」・・と。


  このことは、まさに「富の毒」と言える。 

この禍をまぬがれた富者は殆ど居ないといっても過言ではない。  


  だから「平家物語」の作者はこう断じている。

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」 洋の東西を問わず、歴史が指し示す。

それも2000数百年前から、人類は同じことを繰り返しているようである。


そして、経済大国「カルタゴ」はローマ帝国に跡形も無く粉砕されていくのであった。 "



カルタゴ ---- 3

経済大国・・・通商国家「カルタゴ」   


 カルタゴ人と日本人


アレキサンドリアに生まれたローマ時代の歴史家・アッピアノスは語る。

カルタゴ人は隆盛な時には冷酷で傲慢であり、ひとたび逆境に陥ると卑屈になる。」・・と。


どこかで聞いたことのある評言だ。

世界の一部で語られていると思える日本人評にそっくりではないか

カルタゴ人は文句なしに、あっぱれなエコノミック・アニマルだったといえよう。


 彼等は2000数百年前に当時の世界の中で、地中海からアフリカ大陸の北岸まで足を伸ばすその情熱に置いて、その商法において、ぬきんでた商人だったのである。


 当然、彼等は他の民族からは異様に思われ、不気味な連中と目されていた。 "

カルタゴ--2

経済大国・・・通商国家「カルタゴ」

           盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわり


この言葉は「平家物語」の作者が語るとおりに歴史哲学の基本命題である。

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
たけき者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」

「永遠のローマ」も決して永遠ではなかった。
そのローマの力の前に、カルタゴはわずか数百年で繁栄の歴史を閉じた。

ローマとカルタゴ。
この両国の運命ほど、「盛者必衰のことわり」を如実に示す例は他には無い。

長命だったローマ、あまりに短命だったカルタゴ。
対照的ではあるが、両国の終末は避けられなかった。

所詮、「永遠」の栄華などというものはあり得ないのである。
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