歴史の散歩道 -2ページ目

通商国家・カルタゴ の興亡---- 21

           カルタゴの教訓

 あらためて、2200年以上も前に滅び去った「経済大国」・カルタゴの運命を、過去の史実としてではなく、現代の「経済大国」・日本の教訓として思い起こす必要がある。

 カルタゴは、取引をし、金を貯め、ただそれだけに専念して「経済大国」を築き上げた。
このことが、ローマの不安を呼び起こし、憎悪をかき立てて、ついに軍事大国の血祭りに挙げられたのである。

 建国以来、七百年の生命であった

 カルタゴの運命を決めたのは、あくなき富への欲望といってよいが、仔細に眺めれば、交易・商業の技術にあれほど習熟していたカルタゴ人が、ただひとつ、過去の経験に学ぼうとしなかったからである。

 歴史の教訓に耳をかさなかったからだ。
三度にわたるポエニー戦争での、ローマとの戦いから何一つ学ばなかった。
戦争を防止し、繁栄を続ける道を慎重に見出そうとしなかった。自国の経済的な利益が、他の国にどのような反応を生み出し、それがどんな結果を引き起こすか、少しも考えようとしなかったのである。

 ローマ側から見れば、いくら叩いても、そのつどカルタゴは「奇跡的な経済復興」を成し遂げ、ローマの行く手に立ちはだかった。
ローマがいくら軍事的に版図をひろげても、カルタゴによって経済的に市場を蚕食されていけば、ローマは足元から崩れてしまう。

 その恐怖と怒りとが、ついにカルタゴの運命を決めたのであった。

 他人の儲けた話には、誰も興味を持たない。それどころか、うまく立ち回る人間に、羨望や嫉妬から酷評はつきものである。
商売上手なカルタゴ人が好評をうる筈は無かったであろう。

 カルタゴは政治的にも、商業的な利益と言う観点からだけで運営されていた。
商売だけがカルタゴ人にとっての生きがいであり、人生の目的であり、全ての判断の基準だった。

そして、そのことがカルタゴの生命を奪う事となったのである。

 2000年以上も前に栄えた「通商国家」・カルタゴと現代の「経済大国」・日本の感覚と状況はよく似ているとはいえないだろうか。

もって、大いに教訓とすべきである。

最近世間を騒がしている、村上ファンド・ホリエモン達も金儲け至上主義だ。
「金を儲けたら駄目なのですか?」・・東大卒・官僚エリートの村上さんが目を大きく見開いて、記者に問いかけている。

 「僕があまりに大きく儲けすぎたからこれだけ叩かれるのでしょう」・・開き直っているのではなく、村上さんはきっと本心からそう思っているのだろう。

 世間は、膨大な利益を得たからと言う理由だけで怒っているのではなく、その儲け方を問題にしているのであるが、彼らにはわからないのかもしれない。

 金儲け至上主義がローマの怒りを買い、カルタゴの民族が滅亡するまで叩かれた歴史がある。

まさに、「歴史は繰り返す」である。
とは言え、村上・堀江たちはカルタゴのように命までは取られない事であろう。

      カルタゴ  (完)
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通商国家・カルタゴ の興亡---- 20

            カルタゴの最期!

 隣国・ヌミディアの度重なる領土侵犯に業を煮やして軍を動かし、軍事大国・ローマとの
条約違反に追い込まれたカルタゴ。

 
 ローマの冷酷な策略により、人質として貴族の子弟を300人さしだした上に、20万人分の鎧・無数の投げやり・投げ矢・2千の石弓等の武器を事前に取り上げられていた。

その上で、カルタゴ市民は、現在の居住地域を10マイル(約16キロ)内陸に移せと命令する。
海の民・カルタゴの活動の根を削ぐ為である。
ローマ軍がカルタゴの街を根こそぎ破壊すると宣言したのである。

 冷酷で執拗なローマの要求に対して、カルタゴ市民は、譲歩に譲歩を重ねて従ってきたが、、この宣言には激昂した。

 内陸に引っ込め、だって!
カルタゴを破壊する、、だって!

それはカルタゴ、死ね!!というに等しいではないか。
ローマに対する激しい憤激は、カルタゴを打って一丸とした。
彼等は籠城を決意し、狂気のごとく戦闘の準備にとりかかった。

カルタゴ撃滅を虎視眈々と狙っていたローマ軍と追い詰められ、玉砕覚悟で絶望的な抵抗を試みるカルタゴ市民は史上稀に見る凄惨な戦いとなった。

追い詰められたカルタゴ市民は夜を日についで武器を生産し、女達は髪を切って、それを石弓の為に供出した。 

 ローマ軍はカルタゴの城壁に殺到し、破壊鎚で城壁の一角を破壊して、カルタゴ籠城軍・・といっても、女や老人、子供を含む市民であったが、、それらを神殿に追い込んで殲滅する。

 第三次ポエニー戦争は、まさにカルタゴの最期の戦いとなった。
結果は初めから判っていたのである。

 頑強に踏みとどまったカルタゴを陥すのに、ローマ軍は3年以上を要したが,ここにカルタゴは殲滅された。

 カルタゴ陥落の炎は17日間消えず、1メートル以上の灰が、その跡に積もったという。
ローマ軍は、その灰をかき分けて塩を撒いた。
カルタゴが二度と復活する事の無いように、そしてそこに農産物が育たないように、である。
それは、ローマからカルタゴへの呪いの儀式であった。

こうして、700年の繁栄を築いたカルタゴは地上からあとかたも無く消えうせたのである。

紀元前・146年に終った、軍事大国と経済大国との戦いであった。
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通商国家・カルタゴ の興亡---- 19    

            第三次ポエニー戦争  


敗れても敗れても立ち上がり、経済大国にのし上がるカルタゴ。

第二次ポエニー戦役後、カルタゴは表面的にはローマに忠実なふりを見せている。賠償金も支払う他、ローマの要求に従順に従っていた。  しかし、油断はならない。もともとローマ人にとって、カルタゴ人は理解できぬ性格の持ち主だった。


抜け目無く、狡猾で,嘘つき、金儲けになれば手段を選ばず、人生の愉しみを知らぬ働き蜂。このような人種が金をもったら何をしでかすか判らない。


 ローマはカルタゴを抹殺する機会をじっと待っていたが、ついにその機会が到来する。 カルタゴの隣国であるヌミディアの度重なる領土侵犯に業をにやして、ついにカルタゴは軍を動かして、ヌミディアの英雄・マッシニッサと対決したのである。


 ローマは88歳で裸馬に乗って戦闘を指揮するという老獪・マッシニッサをそそのかして、カルタゴを挑発し、条約違反の責任を押し付けようとしたふしがある。 ローマがしかけた罠であったと思われる。


 それがカルタゴ攻略の機会を狙っていたローマの元老院に絶好の機会を与えた。たとえ自衛のためといえども、軍を動かすにはローマとの「事前協議」を必要としたのに、カルタゴはそれを無視した形となったからである。


 カルタゴはローマの許可なくしてヌミディアと交戦した。

それは明らかな条約違反であると責つけて、ローマはただちに強硬な抗議と要求をつきつけた。


  経済大国カルタゴを永遠に地上から抹殺する事となる最後の戦い、第三次ポエニー戦争の勃発である。

通商国家・カルタゴ の興亡---- 18

           カルタゴ滅ぼすべし!!

・・猜疑から確信へ・・
 再び経済大国にのし上がったカルタゴに対して、軍事大国ローマは苛立ちの眼で眺めていた。

 ハンニバル戦争で無条件降伏をつきつけたのに、敗戦国であるカルタゴが経済的な繁栄を享受し、そのために多くの犠牲を払った戦勝国のローマが財政的にも貿易の面でも大きな赤字を抱え込んでいる。

 なんと言うことだ!。
勝った国・ローマが苦しみ、負けた国・カルタゴが得をする、こんな馬鹿げたことがあってもいいものだろうか。

 ローマはカルタゴを猜疑の眼で見ていた。
その猜疑心のなかには、カルタゴの繁栄に対する羨望・嫉妬、不安・怖れ、怒り・憎悪・・・・あらゆる心情が込められており、それは次第に「カルタゴ脅威論」に結集していった。

 そんな憤懣がローマの元老院の大勢を支配するようになって来たのは、極めて当然の成り行きであった。
ローマの活路を切り拓く道は,ただ一つ,カルタゴの抹殺である。

ローマ人のあいだには、十数年にわたって散々苦しめられたハンニバル戦争の記憶が依然として消えていなかった。
「ハンニバルを忘れるな!」・・これが「カルタゴ滅ぼすべし!」の世論を作り上げていったと見てもいい。
ローマを凌ぐほどの経済力を再び手にしたからには、いつ、又、第二のハンニバルが登場するともかぎらないからである。

 英雄スキピオ亡き後のローマの大政治家・カトーが声を大にして繰り返したスローガンは
カルタゴ、滅ぼすべし」であったが、いまや、これが大ローマの基本方針となった。
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通商国家・カルタゴ の興亡---- 17

           ハンニバルの自決  


紀元前183年、ハンニバルは毒杯をあおいでみずから命を絶った

65歳の波乱に満ちた彼の人生は、ついに終わったのである。


まさしく、ハンニバルは敵であるローマでさえ認める軍事的英雄であり、且つ大政治家でもあった。  

ハンニバルの急進的な「民主革命」は、多大な富をカルタゴにもたらしたが、カルタゴの特権階級だった貴族層が自分たちの権益を奪取されたことに激しい敵意を抱いたことは当然だった。  


貴族達旧勢力は、ハンニバルが国外の「反ローマ」勢力と秘密裏に連絡を取っているという情報をローマの元老院に告げたのである。  


カルタゴの不屈の将軍はローマの手に落ちる前に、シリア、クレタ、アルメニア等に逃亡したが、ローマ軍の追及は執拗であった。  


今や「尾羽打ち枯らし、飛び去るにはあまりに年老いた鳥」となって居たハンニバルは、追い詰められ「それ程執拗に、そんなにも夢中になって、憎むべきこの老人の死を願うなら、宜しい、ローマ人の心配をおわらしてやろう」、そう言って,彼はついに毒をあおいだのである。


 そして、同じ年、ハンニバルの最大のライバルであった、ローマの将軍スキピオも政敵のカトー等に破れ、不遇のうちにその人生を閉じるのである。 "

通商国家・カルタゴ の興亡---- 16

         奇跡の経済復興  

ローマに敗れたカルタゴは、過酷な条件のもとで再建に取り組まなければならなかった。


 イベリア半島を失い、シチリア、サルディニアといった島々、さらにはアフリカ沿岸の経済拠点を奪われた事は、商売にとっては大きな打撃ではあったが、なまじ海外の版図を持てば、そこを維持し、監視し、防衛するために多くのエネルギーを割かなければ成らない。


 ローマに破れた為に多くの版図を失ったが、かえってその重荷から解放されて、経済活動は大きく自由を得て、逆に多くの富を得た。  又、ハンニバルによる革命的な国内改革の成功もそれに拍車を掛けていた。


①財政再建不公平税制の改革に乗り出し、富める者からうんと取り、貧しい庶民への税は軽減するという「累進課税の導入である。


②商業の振興カルタゴは根っからの商業民族だから、失われた資産を取り戻そうと夢中で商売に励んだ。  こうして、敗戦から10年もたたない間に、富はまたしてもカルタゴに集まり始めた。


敗戦の結果、身軽になって経済活動を活発化して経済大国となる。 まさに、第二次世界大戦の敗戦からたち上がった日本を連想させるカルタゴであった。 "

通商国家・カルタゴ の興亡---- 15

     ハンニバルの復活 

 無条件降伏。
どのようにして、戦後の復興に手をつけたらいいのか。
反乱こそ起きなかったが、カルタゴ国内は暫らくは無秩序のまま日を重ねた。

 ローマの厳しい賠償取立てに対して、カルタゴの指導者層である、元老院も百人会も
無力な上に腐敗し犠牲は一般の市民だけに重税と言う形で押し付けられた。

 一般市民から構成されている「民会」と特権階級から成る「元老院」と「百人会」は対立する形になり、ついに民会はハンニバルを最高の権力者であるスーフェテス(行政・司法長官)に選出した。

 ハンニバルは敗戦の軍事的責任者でありながら、市民の力を背景に、カルタゴの復興に乗り出す

 敗戦から五年後の前・196年のことであった。
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通商国家・カルタゴ の興亡---- 14                 

カルタゴの和平交渉   


和平交渉の使節団がカルタゴとローマの間を往復した。

ローマの代表はスキピオであり,カルタゴの全権はハンニバルにゆだねられた。


 紀元前201年,講和条件は調印される。

それはまさしく、カルタゴの無条件降伏だった。 無条件降伏!!。


それは、敗者・カルタゴが勝者・ローマの課する一切の要求を、無条件で受諾する降伏であった。 まさに、「ポツダム宣言」の受諾であるといえる。


 ローマの要求は過酷であったが、それをのむ以外にカルタゴのえらぶ道はなかったのだ。ザマの会戦で大勝したローマ軍司令官・スキピオは、そのまま軍を進めてカルタゴを攻撃し、この都市を徹底的に破壊しつくすことも出来たのである。


 スキピオがハンニバルにつきつけた条項は、たしかに過酷であった。

①海外領土の放棄

②全面的な武装解除

③莫大な賠償金・・・といった条件の内容は、厳しいには違いない。

 しかし、この条項には、戦争責任者の処罰は含まれておらず、このポエニー戦役(ハンニバル戦争)でローマが受けた人的・物的損害を考え合わせると、ローマがこの程度の要求で、よくも自制したと考えるほうが妥当であろう。  

完膚なきまでに叩きのめしてしまったら賠償金も取れなくなると言う計算が、戦勝国の元老院にあったのかもわからない。あるいは、ハンニバルの政治的手腕がローマ側の譲歩を引き出し、又、スキピオのハンニバルに対する「敵ながら天晴れ」と言う敬意と信頼が、カルタゴを壊滅から救ったのかも知れない。 ・・が、こうして、17年にわたった第二次ポエニー戦争、いわゆるハンニバル戦争は終結したのであった。 " "

通商国家・カルタゴ の興亡---- 13

            ハンニバル大敗す!

 17年にわたった第二次ポエニ戦争はローマ執政官・スキピノの大勝利に終わる
かってローマ軍がさんざん苦杯をなめたあのカンネーの会戦、ハンニバル軍が圧勝したあの戦いが、時と所を変えて逆になりカルタゴ軍は包囲殲滅された。

 作戦の上ではハンニバルはスキピオに勝るとも劣らなかったが、有力な騎馬隊がローマ側につき、ハンニバル軍の中核にはあまりに頼りない傭兵しかいなかった。

 敗戦のカルタゴにのしかかったのは重く厳しい講和の条件であった。まさに無条件降伏に近かったのである。

①完全武装解除(全艦隊をローマに引渡し、老朽船はすべて焼却する。
②カルタゴの独立は認めるが、本国以外の領土は放棄する事。
③カルタゴの安全はローマが保障する。カルタゴは専守防衛の目的に限り自衛軍の存続を認める。海外での戦争行為は認めない。
④北アフリカにおける自衛の為の戦争といえども、ローマとの事前協議を必要とする。
⑤賠償金として、一万タレントをローマに支弁する事。但し50年賦の支払いを認める。

 カルタゴの元老院では、この屈辱に耐えられず、条約を破棄して戦争を続行するべきだとする一派もあったが、ハンニバルはこれを制し、受諾する以外にカルタゴの生きる道はないと説いた。

 36年ぶりに故国の危機を救うべく呼び返されたハンニバル、16年にわたってイタリア半島で戦い続け、一時はローマを追い詰めた将軍、その経歴が反対者を沈黙させるに十分だった。

 ハンニバルは謙虚に語る。
「私は9才のとき,故国カルタゴのあなた方のもとを離れ、36年後に又故国に帰ってきた。少年時代からの戦争体験で、私は軍事上の技術は十分に体得した心算である。
しかし、法律とか、都市や商業の習慣について、私を教育してくれるのはあなた達である。」

 ここに、戦争の後始末という困難なことをハンニバルは引き受けることとなったのである。
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通商国家・カルタゴ の興亡---- 12

               ザマの大会戦

 前203年、カルタゴはローマの執政官・スキピオに追い詰められていた。

 カルタゴの元老院は、この危機に際して、カルタゴを救える英雄は
ハンニバル以外に無いと考え急遽、イタリアから呼び戻す事となった。

 万感の思いを秘めてハンニバルは17年ぶりにイタリア半島のかかとにあたるクロトナを出航しアフリカに向かった。・・・・・彼に従った兵士は24000人だった。

 彼はすでに44歳になっていて、片目も失明していた。
時を同じくして、イタリア半島で依然として戦い続けていたハンニバルの弟マゴもアフリカに向かったが、ミラノ付近の戦闘で受けた傷が悪化して帰国の途中で死んだ。

 ハンニバルはスキピオに最後の決戦を挑み、ここにカルタゴの運命をかけたザマの大会戦が始まったのである。
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